cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

勝手にブログ評論

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人類補完計画に保険を掛けようものなら、ロイズのアンダーライターに相談しなくてはいけない。

総合得点 89点


まこと見事なエルガーだ。そうとしか言いようが無い。メトロポリタン美術館のキュレーターになるために必要な資質は、片平指揮 的であること、そして楽曲一覧メモ的であることだ。紳士淑女は刮目して携帯番号を見よ。カベルネ・ソーヴィニヨンの来歴が、1990年代まで明らかにされなかったように、チャイコフスキー吹奏楽人気の関係もまたいずれ明かされるであろう謎である。腐ったヴィエラがひとつあると、全体がダメになってしまう。私なら、演奏終了後拍手に生涯を捧げるだろう。あと10年若ければ。

どういうことなのか。私にも良く解らない。けれども2007年春には解っている。携帯番号にキャビア一粒ほどの価値もないのは、残念なことである。どうだろう。ベートーヴェンは必要ないだろうか。なぜ吹奏楽人気は吹奏楽人気たりえるのか。人々はいかにして「第1楽章」事件から立ち直ったのか。交響曲第4番第4楽章 は悪名高きウォルマートのバイヤーですら手を出さないだろう。少女にフォアグラはまだ早過ぎるように、胴上げ〜オープニング に吹奏楽人気はまだ早過ぎるように思う。ここで若干適宜改変を解説しようとはおこがましい。何様だというのだ。何か忘れてはいないだろうか?・・・そう、キャプレット家だ。清良&峰 を必要とするのは自然の摂理であるだろう。144分,コンサート ,シュトラウス・・・枚挙に暇がない。時にはギリシアの砂浜でベートーヴェンを愛でるのもいい。だれもが「ハイドン」事件を歓迎はするまい。むしろ「インターネット」大会などと称して、それをたたえるのはどうだろうか。バルセロナの夕焼けは、荒々しく、まるで交響曲第7番第1楽章 のようである。パリ観光 にもそれが言える。「ガーシュイン」主義を掲げる人々を、無謀なドン・キホーテと嗤う事は容易い。だが果たしてそれで良いのか?プラティニ指揮者コンクール一次予選 は到底実現不可能に見える。どんなに隠そうとしても、込む千秋〜外出は見つかってしまう。ニューヨーカーは当たり前のようにコンセルヴァトワールを心がけている。

そもそもの発端は1858年12月22日生だ。

「コンサート 」主義を掲げる人々を、無謀なドン・キホーテと嗤う事は容易い。だが果たしてそれで良いのか?

総合得点 66点


103分のようであるとも言える。シャンゼリゼ通りに続くコンコルド広場は、プロコフィエフであふれている。ボリビアの民族はベートーヴェンを大事にするという。そういうわけでモーツァルトは大切なのだ。

パーティBGM がそんなに大事なら、ヒュミドールにでも閉まっておけば良い。私なら、フォーレに生涯を捧げるだろう。あと10年若ければ。

そのときはたと気づいた。チャイコフスキーはレクイエムでもあるのだ。

全くもってスコットランドの言い伝えに寄れば、「好奇心はレスピーギを殺す」のだそうな。パーティドレスにドボルザークはよく似合う。パリ5区の静かな住宅街にひっそりとタチアナがある。時にはギリシアの砂浜でジャン を愛でるのもいい。シュトラウスの醸す雰囲気は、極上の胴上げ〜オープニング も及ばない。モーツァルトに漂う気品は、まるで洗練された淑女のようだ。どう見てもリサイタルはドボルザークではない。どんなにニューヨークを田舎呼ばわりしても、ヴェルムのない我々英国の人間にとってニューヨークは羨望の街となる。フィッシュ&チップスなんて無粋だ。むしろ102分とシュトラウスの組み合わせを試したい。それが粋というもの。

どうすれば「シュトラウス」事件の二の舞と成らずに済むのか。考える必要がある。
こんなときにシベリウスを持ち出すのは、少々冒険である。まさしく110分に小判、オリジナル にシャルドネである。なんと清々しいブログだろうか。1908年6月21日の風に乗ってオリジナル が舞うようだ。シュトラウスもそうだ。ほのかに香るモーツァルトの香りが、人々を安堵させる。

ダンテの神曲では、指揮コンクール予備審査合格 を巡って対立が起きる。
そうか。ではイタリアはいかがだろうか。

オランダ製の万能めカンタービレinヨーロッパには、かのジェームズ・ボンドも舌を巻く。

他に『つまり「吹奏楽人気」的見解には、もう飽きているのだ。』とかでました。身につまされる思いです。