cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

「1Q84」を読んだよ、と音楽

(以下、「1Q84」について、普段そんなに読書を嗜まない、それよりオーケストラを聴いていたい一介の若輩の戯れ言 批評とかはたぶんしてない)

 私は読書を主食にはしていないので、冒頭のヤナーチェクシンフォニエッタ」の引用を立ち読みしなければこの世界には立ち入ることはなかったかもしれない。「シンフォニエッタ」はそれほど管弦楽曲の中では特異で、言ってしまえば奇妙な曲である。この曲が冒頭に示され、時折憮然として文中で思い出されるのは、奇妙であるがゆえに、「1Q84」という世界への導入に成功しているといえる。

 ただ「1Q84」を多くの人が買い、言及されるジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団あるいは小澤征爾指揮シカゴ交響楽団の録音をまた買うというのは、本の購入者層がCDを1枚買うなんて些細なことに余力があるというだけで、ネットを使う人ならば上のブーレーズ指揮BBC交響楽団のProms2008でのライヴを一度見てみればいい。文中に示される音楽への関心なんて、言うほど大きくはないし参考にしかならないので、これで増産ウハウハと話題にするのはCD売上げ自体がマスで減少傾向にある現状的にナンセンス。

 加えて個人の音楽観として(まだ多くの作品を聴いてるとは言い難いが)、ヤナーチェクという作曲家は、音楽の要素だけ見れば、異なるリズム要素をあえて同居させることで*1独特の形而上的な音空間と感情の激昂を創造する希有な作曲家であって、「ボヘミアの風景を思い起こす」と言及されるようなチェコの作曲家という面は基底としてあるとしても、注目されるべきはそのリズム感性だろうし、「1Q84」への契機というのはむしろそのリズム感による焦燥感や異質感が助力しているのではないだろうか。*2

世界を操作する、という想像力

 物語に話を移すと、目次だけ見れば2人の主人公の出来事が交互に描かれることがわかるし、書評をいくつか読めば「メタフィクション」であることも示唆される。おおむね好評で「村上春樹の総決算」などとも言われているが、それを「想定の枠に収まった」として批判したのは東浩紀氏(「週刊朝日」09年6月26日号)。引き合いに出しているのは、

・・・ たとえば、よく指摘されるように、1Q84の物語は明らかにあるタイプのエロゲーに似ている。そして、ぼくの『ゲーム的リアリズムの誕生』や『美少女ゲームの臨界点』の読者であればわかるように、それは決して偶然ではないし、また一般論で片付けられる話でもない。なぜならば、現在の萌えの基本パラダイム(のひとつ)を作ったKEYのゲームは、そもそも村上春樹の影響を多分に受けていたからです。つまり、村上がエロゲーに似ているのではなく、エロゲーが村上に似ているのです。そしてこの影響関係は、いままでの文学論では見えてこなかった村上評価を可能にする。今回の1Q84は、そういう影響関係を村上自身が自己証明してしまったような作品であって、その意味では重要と言うこともできる。 ・・・
困ったものだ - hazumaのブログ

 美少女ゲームである。もうこれだけで本の主要読者と対話が拒絶されそうだが、それこそ不幸というもので、はてしなく飛躍していくと陵辱ゲーム規制につながりそうである。
 それはともかく、村上的な想像力をこの10年強で推し進めてきたのは美少女ゲームと言えそうだ。具体的に思いつける作家としては(これまた私は訓練されたエロゲーマーではないので)、田中ロミオ麻枝准だろうか。田中ロミオが手がけた「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」など、麻枝准が手がけたゲームブランドKeyの一連の作品「CLANNAD」「リトルバスターズ!」などは、大同小異、大文字の「世界」を読者に意識させる作品だ。言い様によっては、キャラ数がより多く物語の仕掛けも巧みであるから、村上より上手かもしれない。これらの作品に私はいたく感動したし、個人理に埋没されないインパクトを植え付けたが、むしろこれらの作品に触れていたからこそ「1Q84」を楽しめた、という面がなきにしもあらずで。*3
 だからというわけではないが、村上的な想像力が今どのように展開されているかは、村上春樹の次回作を気長に待つよりは、これら美少女ゲームに確かめられた方が賢明かもしれない。そして美少女ゲームが”健全な”体裁でもって書籍化するのを待つのは無意味で、エロゲーの想像力を受容するにはゲームという形でなければならない。作者自身のインタビュー*4でも言われているように、作者は「物語」への回帰を希求しているが、むしろその物語を新しい形で模索していたのが美少女ゲームである、という気づきは肝要だろう。ただ一方で、美少女ゲームや昨今のまんが・アニメが形成する「萌え」という刹那的反応への傾倒は、同時に物語の危機として存在しているが。

CROSS CHANNEL

CROSS CHANNEL

箇所として一つ指摘しておくと、BOOK2最終部分の天吾が己の生き様を振り返る際の、大学生時のくだりでの修辞にかなりさーっと曳くものがあった、レシヴァ同士の暗示。

音楽についてのよもやま話

 脱力して音楽の話に戻ると、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」は冒頭に掲げられてることもあって日和見で結局読まない人にも契機を与えているのだけれど、もちろん他にも音楽は登場する。クラシック関係のみ目についたものだと、ダウランド古楽器による演奏(おそらくリュート)、テレマンの各独奏楽器のためのパルティータ、「BWV846からBWV893」すなわち「平均律クラヴィーア曲集 第1巻と第2巻」、「BWV244」すなわち「マタイ受難曲」よりアリア「罪の悲しみは」。ジャズや映画音楽も出てくる。
 なかでもバッハの2作品は重要で、特に「平均律クラヴィーア曲集」の構成は「1Q84」の構成とシンクロしている。きちんと読了した人は「シンフォニエッタ」より「平均律クラヴィーア曲集」を聴いた方が示唆に富むのではないだろうか。そして次回作は、ハンス・フォン・ビューローが「平均律クラヴィーア曲集」を「旧約聖書」に、ベートーヴェンピアノソナタを「新約聖書」に準(なぞら)えたように、ベートーヴェンピアノソナタの曲数をおいて32章構成になったりするのだろうか。

 あと天吾は「シンフォニエッタ」を吹奏楽コンクールでティンパニ奏者として演奏した、というエピソードがあり、これをふまえて今後実際のコンクールで「シンフォニエッタ」を自由曲にもってくる団体が出てくるかもしれないのだけれど、正直そのようなノリは不快に思うし、管弦楽作品を管楽器のみに置換することでその色彩感を欠いてしまうのは、これまでも言ったこと。カット前提でない演奏会で全曲演奏してみるという力業を試みるならばまだいいのだけれど。あとは日本のプロオケでどこがいち早く演奏会で取り上げるのかなー、など。

 最後に、「1Q84」に出てくる音楽の一部を8tracksとして作ってみた。ただ8曲という制限があらかじめあることから、「シンフォニエッタ」より個人的には傑出した大作であると思う「グラゴル・ミサ」の原典版におけるシンメトリー構成(「イントラーダ」を両端に配置し、「クレド」が中心に位置する)を模倣してみた。「平均律クラヴィーア」からの1曲は実際に言及されるBOOK1 第16章に対置される第1巻第16番 ト短調 前奏曲。レファレンスとしてはあまり使えないかもだけど。

http://8tracks.com/cognoscenti/janacek-1q84


http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=855928&GOODS_SORT_CD=102

*1:たとえば3連符と8分音符を違う楽器で同時に演奏させたり

*2:ブーレーズが近年ヤナーチェクを振るのもそういった純音楽的な関心からだろう。そして、その広範な音楽活動により今年の京都賞を受賞することが決定した。敬愛する音楽家としてとても嬉しい。http://www.inamori-f.or.jp/ja_topics_090619.html

*3:あと個人的にアニメを引き合いに出しておくと、上記Key作品のアニメ化もそうだけど、「コードギアス 反逆のルルーシュ R2」かな。Cの世界やCCという存在

*4:http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm