cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

「清楚さ」自ら創る乃木坂46

【要約】
・これはアイドルのライブに初めて行った者の小考
乃木坂46 真夏の全国ツアー2015 @大阪城ホール 8月26日(水)
乃木坂46は「清楚さ」を自己了解し、自ら清楚たらんとするアイドルになった


 自らをこうだと定義したとき、急がば回れをやめ、次へ次へ加速度的に進んでいく――。活動3年目を迎えたアイドルグループ乃木坂46のライブは、当の女の子たちが自らを決め、自らをつくるさまを観客に見せるものだった(少なくとも、そういう演出であった)。センター生駒さんとキャプテン桜井さん双方から「私たちらしさとは何か」という言葉が出てきたものの、それを換言せず、パフォーマンスでみせる以上のことはしなかった。ライブの中身が、その「私たちらしさ」の本当を明らかにするだろう。

 私自身初めて行くライブであり、そもそも立って聴くのか/座って聴くのか、ペンライトも持たない、曲ごとの掛け声も当然に知らず、ぼうぜんと聴くに終始したのは致し方なかった。なので当初から、抽象的にこのライブを楽しんでみることにし、その鑑賞と思惟の結果に期待した。

 コストパフォーマンスとしての結論は、このチケット代は十分にペイしない。特別枠のステージ隣接席でない限り、メンバーらは遠くにある完成されたお人形さんにすぎず、双眼鏡からのぞき見る笑顔は自宅のテレビで見る笑顔を凌駕できない。むしろこの不満感は、「握手会」というイベントのすごみと革新さを思い起こさせる。“会えるアイドル”という観念は、客でしかなかった我々に新しいアイドルの快楽を発明してしまったんだと。ライブのチケット代で数回握手できる方が幸せなのではないか。

 では、ライブそのものはどうだったか。3年の蓄積からなるアップテンポ曲多数の攻勢(構成)は予想の範疇であり、大音量PAで低音も高音もハウジングして騒音となっているのには閉口した。またそういった跳ねる曲でしか強引にホールのムードを熱くできないのはどうか。いろいろさめた達観で女の子の振りと笑みを見るしかなかった。

 だが、「何度目の青空か」「君の名は希望」は違った。生田さんのピアノ演奏と弦楽四重奏(「ストリングスの皆さん」と紹介された)に乗せて、メンバーらはただまっすぐに歌った。導入の映像からして明らかに、客に座って聴くことを要請した。けだし名曲。いずれも合唱としての評価も高い楽曲にて、ライブだけの特別な装いであった。まさにこの後、「私たちらしさとは何か」という表明がなされた。つまりは、この装いが私たちらしさなのだと、一つの表明であった。私たちはこの両曲を清楚に披露するアイドルなのだと。

 清楚、といった。これは乃木坂46が確立したかにみえるパブリックイメージである。当然にスキャンダルで揺れたし、はじめはプロデュース側が立てた戦略にすぎなかっただろう。時のいたずらで、メンバーの女の子らは、自らの楽曲・パフォーマンスを客にみせていく中で、私たちは“こういうものだ”と了解し、自らを“こういうもの”としてつくりあげる段階に上ったのでないか。その善し悪しは運営側のさじ加減であるし、客の評価である。

 清楚な女の子たらん乃木坂46を、私は静かに堪能していくだろう。