cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

メモに近い戯言

(なんか頭がふわふわして真剣に論理的に考えるってことができないんで、メモと言うことにして文責から逃れるわけですけど、)
先日西宮市吹奏楽団の創立40周年記念・第43回定期演奏会に行ってきて、「個人的には」非常に考えさせられたわけです。客層・エチケット・曲目・演奏会の形式・吹奏楽の曲そのもの(楽器法・構成云々)。プログラムは以下の通り。

  • 交響詩「モンタニャールの詩」/J.ヴァンデルロースト
  • 交響詩「アルプスの詩」/F.チェザリーニ
  • 交響曲第二番「キリストの受難」/F.フェルラン
  • (アンコール)
    • 2005年度課題曲 ストリート・パフォーマーズ・マーチ
    • 2005年度課題曲 マーチ「春風」
    • 軍艦マーチ

指揮:北野 徹

一応演奏会の感想を失礼ながら言わせていただくと

「おそらくプロより倍管以上の大編成で大曲を取り上げ、迫力のある演奏を披露したのは曲をより効果的に聴かせるという点で非常に意義深く、演奏自体も北野先生により統制がしかれ、これで無料と言うのは少々惜しい気がしてしまう。」

と、かっこよくね。すべての曲(アンコールの課題曲含む)を全曲聴くの初めてで、私にはさらに意義深い演奏会でした。

ただ先ほど色々考えさせられたと言うのは、客層がなぜかジェネレーションフリー(いや少しは偏りはあったけど)で、プログラム最後の曲で指揮者は各奏者に労うためにそれぞれ立たせているのに、観客はというと何となくで一定のリズムのある拍手、いわゆるアンコールを求める拍手をしている。最近クラシックの演奏会に行った身としては、こういう場合奏者へ拍手を送るもんであって、私は(打楽器などどのパートもよかったし)労いの拍手をしてたのに、それは全体としてマイナーに繰り下がってしまってたんだよ、驚いた、驚いた。お子さんが演奏会中泣いてはるし、私の前の高校生は鑑賞に問題ない程度ではあるものの、こそこそしゃべるし。そして曲。吹奏楽内で見るのではなく、クラシックから、いや音楽界全体から見てこれらの作品はどう位置づけられるのか。

考えてもぼんやりとしか浮かばないのだが、一つに「クラシックはスノッブ吹奏楽は庶民」という図式を考えれば、クラシックが一般に広まりつつある・そのように努力しているのとは反対に、吹奏楽はより芸術の真価へ・聴衆のモラルもあげていく必要があるのでは、と。高望みが多分にありますが。そう思ったのでありまする。


個人的には、まだまだ吹奏楽も・クラシックも・その他多数のジャンルは手もつけてない所が多いし、語る資格は無しだが、少なくとも大学で音楽学を学べる選択肢があってよかったな、と。まだ詳細は不明。


で先日の演奏会に似たプログラム(曲としては「キリストの受難」しか被ってないが)を東京佼成が既にやっておりまして、作曲家の中橋愛生氏がBand Powerでレビューを書かれていて、これはちょっとヒントになるなぁ・勉強になると思った次第で、メモする運びと相成ったわけで。「吹奏楽は過渡期である。」

吹奏楽マガジン Band Power:レポート


実は私の場合、氏がこれよりいち早くBLOGで感想を述べられていたのを見ていたのであります(と、ここでまとめちゃうのはちょっと迷惑かもしれませんが)。ここではもっと素直な感想が書かれているわけですけど、

全体を聴くと、その各場面の連続性に非常に疑問が残ります。場面展開の必然性に欠けるというか、構成力に乏しいというか、ぶっちゃけ「思いつきで書いてるんじゃないか」感が非常に強い。


http://napp.prof.shinobi.jp/Comment?0502260321

と言うところが個人的に気になっていて、演奏会聴きながらも、確かにそうかもしれない、と思ったのであります。



なんかまとまりませんが、私はこうやって吹奏楽界を考える・音楽界を考える、ってこと好きでできたらいいなぁ、と思ったのであります。社会学音楽学のツールを勉強して。根底の哲学を忘れず。そのためのこれからの試練ですな。目指すべき山は高すぎますね(笑。