cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

21年前に私は生まれた、らしい

誕生日とは、私にとって本質的なものではない。むしろ、それは与えられるのみではないだろうか。


考えてみた。もし社会制度的に誕生日を必要とせず、親からも誰からも誕生日を告知されなければ、人は一生誕生日を知らずに生きていれるのではないだろうか。もちろん自ら「いつ生まれたのだろう?」という疑問がいつか湧いてくるかもしれない。でもそれは人生に苦労しないほど幸せな生活を送っていれば考える必要もないだろう。そのような疑問は、現代社会と適合できず、社会が受け取ることを拒否した自己を受け取り、自己を深く掘り下げる必要が生じた人に、起こってくる問題のひとつであると思う。

少なくとも、生まれて、数年経って自己意識が目覚めたときに、「私は何年何月何日何時に生まれた」という明確な認識を持っている人間は、いないはず。意識が目覚めた直後は、子供というのは腹の中の記憶を覚えていて、それを聞き出すことも可能らしいのだが(だいぶ前の「リサーチX」か何かでやっていた)、そのようなお腹の中の記憶はすぐ消えてしまう。誕生日は、いつか知らされる。それは、いたって受動的だ。
だが人はそれを知り、その他者はその人の誕生日を知り、毎年やってくる同じ日に、何かしらその人について祝う。他者にとってはいたって他人のことなのに、その日は年に一度の特別扱いが許される、といった具合に、誕生日と同じ日になると祝福される。自分以外の他者に誕生日を教えるのは能動的だが、それを祝ってもらうのは受動的だ。
自分で誕生日を祝う、というのもあるかもしれない。でも妙である。毎年同じ日に、自らによって、何かしら特別なことをする。それは能動的でありながら、実は元々与えられたものによって、それを決めているに過ぎないのだ。

そもそも人は誕生日を、母胎から外界に出た日のことを指して言うが、正確に人が生き始めたのは、精子卵子が結合した瞬間からのはずである。そこから細胞が1つ、2つ、4つと分裂して、私という人間が形成される。精子卵子が結合する機会がなければ、私という人間は生まれてこなかったはずだ。いや、精子卵子にそれぞれ私の元となる遺伝子があったとすれば、私はもっと前から、あった、のかもしれない。という具合に私の起源を巡って行くと、結果的には人間の先祖に行き着いてしまう。誕生日は、その出産という出来事が非常に強烈なものであるがゆえに、大変大きな区切りとして親が記憶するものであり、それを親は必ずや教える。本人は、確かに出産に際して最大限の能力を発揮して、外界に出る。ただ、その記憶は意識が目覚めたときには無いか、いずれ消える。親にそのときの記憶を教えられるかもしれないが、それはやはり受動的だ。


そうやって、誕生日が与えられたものではないかと考えてしまうと、何も毎年同じ日に特別扱いを受けて自分が祝福されたり、自分を祝福したりするのは、決して必要のあることだろうか、と思えてくるのだ。

以上のように私は数日前、一人でいるときに考えてた。そして今書きながら考えている。


正確には、私は午前1時ごろに生まれたという。まだ祝福の言葉などは頂いていない。それは今日という時間が経つにつれ、頂けると思うのだが、数日前、私はこのような祝福の言葉を頂くのが、概して人より少ないことをどう捉えるべきか、そもそもこのように誕生日を祝福されたり祝福したりすることの意味とは何か、疑問になった。
今の私の状況を考えても、親友と呼べる人は一人だけ、友達とか言う人は、大学がうまくいってないため、そしてそれまであまり友達というものを積極的にも消極的にも作ってこなかった・できなかったので、実社会にはほとんどいない。ネットで交流のある方々には、実際にお会いしたこともあるが、いまだほとんどがネット上のコミュニケーションのみ。ただ実社会の人間関係より有意義な深度のある関係だと思う。そして残りはただ社会的な人間関係があるだけ。そんな状況、要するに実の周りには誰も居ない、ということ。他人が誕生日に大変祝福されるのが、どうしても憎く見える。

そうやって、誕生日は概して与えられるもので、あんまし意味が無い、っていう考えを作り上げてみたかった。皆が誕生日に何か祝っているのを脱構築してやりたい、というのが先にあったのかもしれない。


でも、そんなことを言って皆からの祝辞の一切を拒否したりだとかは、おそらくできない。また、こうやって言いっぱなしにしておくのも、私がより寂しい思いにさせられるだけになる。結局私は、自分で誕生日を骨抜きにしながら、やはり積極的に定義しないといけないようだ。

誕生日がたとえ与えられたもので、私にとって本質的ではないにしろ、それは親と私が共有した強烈で象徴的な出来事であったし、毎年この日に何かをやるというような一見無意味なことをするのも、別にいいだろう。


私は今思うに、誕生日というのは、それまでの人生・そして今をを軽くでも深くでも振り返るきっかけの日である、と思う。

もちろん、別に思い返さなくてもいいと思う。思い返すなら、どうせなら丁寧に思い返す。自分が何が好きで、何が嫌いか。何が好きで、何が嫌いだったか。何をやってて、何をやってないか。何をやって、何をやったか。どんな人と関わり、どんな人と関わっているか。そこから何を考えるかは、これも考えなくてもいいし、考えてこれからの活路にしてもいい。


そしてやはり、この日は特別扱いされても・してもいい日、と開き直ってもいいと思う。

(ってやっぱり開き直ってしかないか…)


と、そうやって誕生日を前にしてこれまでの私・今を軽く考えてみたけど、結局人生って「一喜一憂」なのかな?

そりゃぁ苦しいときはほんと苦しい。数日前までそんな状態が数ヶ月続いていたし。でも、ほんの少しでも、今を改善しようという意欲があるのなら、たとえ苦しんで苦しんでそのような意欲が息絶え絶えになっても、また蘇って来るのなら、生きてはいけるのだと思う。

そうやって数ヶ月間苦しんだ結果、昨日渡された新しい職場での給与明細は、象徴的な誕生日プレゼントになるだろうし、今日は映画を見に行ったり服やら色々買い込んだりと、実質的なプレゼントを自ら与えようと予定していたりする。
今日は別に意図して仕事を休みにしたわけではなく、思わず休みが取れただけだけど。


やっぱり一人で、だけど。