cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

五感のうち、ひとつ以上を「閉じる」こと

先日、連日の勤務でさすがにふらついて、ある部屋で休もうと、うとうと向かった。

「ここで寝てても良いですか?」

私はこの一言を言いたくないがために、言わなくても寝れるような場所を求めて、社内をうろついていたのたが、体力も限界、そう言うしかなかった。

そこには看護婦さんがいて、受付をしているのだが、どうも様子が変だった。私がためらいながら言ったその言葉を、耳で聞こうと、私に耳のほうを向けた。

どうも、視力が失われてるらしい。

「はい?」

看護婦の手は、そこに壁があるのを確かめるべく、壁をさすっていた。

「特に予約と貸してないのですが…」

「…はい、いいですよ。どうぞ。」

一応案内してくれる。私はぼんやりと横になる。意識がもうろうとなりながらも、やはり不思議になって、彼女のほうを見てみれば、顔を下に向けて、ぽつんと座っていた。


…気づけば数十分寝てた。彼女に、

「ありがとうございました。」

と言ったが、

「はい、どうも。」

と、また顔は下を向きつつ、耳をこちらに向けて言った。




…あの部屋を出てふと思ったことを忘れないように書いておきたいのだが、
彼女はおそらく障害者雇用で入社し、その部屋の受付をしているのだろう。入社時と退社時には付き添いがその部屋まで連れて行き、あとは一人になる。予約者を待って。
だが、彼女が一人でいる姿を想うと、もし彼女が何とも知らずここに「ただ」連れてかれただけなのだとしたら、彼女はその狭い部屋に「閉じ込められている」のではないか、と。少し不気味な感じがした。

だが、こうも思った。

音楽に限らないが、何かをするとき、私たちは感覚を研ぎ澄ます。だが、情報多寡な現実にあって、すべてを、否、たとえ最低限必要としているもので「すら」、捉えきれないことのほうが多い。その時私たちは何をするのだろうか?

フィルターをかけるのではないか。

例えば、指揮者等を見ても、目を閉じて棒を振る人がいる。何かの感覚がなくても、音楽をしている人がいる。彼らは意図的に、あるいは不可抗力で、感覚を閉ざす。閉ざすことから生じる行為は、得てして私たちを驚かせる。


別に障害児になれと言いたいのではない。でも、五感のうち、ひとつ以上を「閉じる」ことは、少なくとも、感覚を研ぎ覚ますという「進化」的な行為に尽力をそぞくのとは逆に、「退化」的な行為、そのような行為も時に必要なのではないか。


逆説的だが、「退化」があって、「進化」もあったのではないか。