cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

100のメニューより、1つの偶然を

http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20070728/p1
はてなブックマーク - 虚構組曲 - 初心者のためのクラシック音楽100選

知らないことについてとりあえずまとまった物があって、何となく便利そうだとブクマしておくのはいいが、そもそも、なぜこうも再びリストがあがってくるのか(あげたがるのか)という点について、もう少し検討しなければならないのではなかろうか。

なぜリストが必要とされるのか。リストが示されてしまうのか。

これを考えたとき、私は「リスト」を「データベース」に勝手に置換して、「データベース消費」(動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書))を思い出した。
「データベース消費」で説明されるのは、設定の集積であるデータベースから組み合わされたシミュラークルとしての作品を消費するという様式であって、クラシックで言えば、作品のデータベース、演奏者のデータベース等となろうか。
この作品とこの演奏家の組み合わせはイケる(萌える)がこれこれはイケない(萎える)、と確かにイメージはしやすいが、このような想定は暴挙に等しい。でも私が一つ示しておきたいのは、ポストモダン下の消費様式としてデータベースが機能し、またそのデータベースの中身である各種の要素についてあらかた既知であるのに対し、クラシックにおいてはそのようなデータベースすら知られていないのではないか、ということだ。欲望すべきデータベースすら知らないまま、カッコつきの「クラシック」を消費しようとする。であるからして、クラシックを聴こうとなった場合、まずはデータベースを要求する、あるいは示さないといけないと思わずにはいられないのではないか。

以上は抽象論だが、私はそれ以前にこのようなリストに対して懐疑的だ。

それは、音楽に対するあくなき消費の欲望、その本質的な正体を看過しているということである。音楽にはまる、そのきっかけは往々にして突然降りかかってくるようなものであって、リストで示されてすぐに得られるようなものではない。私たちが無防備にふとある音楽を聴いて、本能的に駆り立てられる。その様な個人的で根源的な体験が、更なる体験への欲望の連鎖を生むのであって、リストはそういった音楽を聴いたことによる我々の身体感覚の外部にある、単なる情報の一覧でしかない。

音楽(クラシック)を聴くきっかけはどのようにして与えられるか、それはあくまで個人的な体験であって、本質的には介入不能だ。だがそれでも、他人のお世話でクラシックを聴かせたいと言うのであれば、無機質なリストより、自分自身がはまっていてもしかするとその楽しみを共感できるかもしれない、という無理強い、「これすげーから、つべこべ言わずおめーも聴けや!」の1つから、の方が有効ではなかろうか。あとは受け手の身体感覚に賭けるしかないのである。
あなたは隣の人に、100のリストをとうとうとあげるのか、一枚のCDを手渡すのか。*1 *2

ベートーヴェン:交響曲第3番・第4番

ベートーヴェン:交響曲第3番・第4番


最後に、なぜ今クラシックなのかというもっと根源的な問いに対して、07年7月28日付朝日新聞 be on Saturday business フロントライナーのカメラータ・トウキョウ会長井阪紘さんのお言葉を軽く引用。

――日本では、クラシックブームが続いています。

 井阪 TV版「のだめカンタービレ」の監修は、うち所属のオーボエ奏者・茂木大輔です。でも、クラシックがブームというより、ポピュラーがプアなのでは。今はヒットしていても、エバーグリーンになれるメロディーがない。みんなが聞ける音楽となると、結局、クラシックになっちゃうんですよ。


http://www.be.asahi.com/top/b01.html

私はここ数年でのポピュラーの名曲をあげよと言われても、あげれない。

数ヶ月サイクルの曲とは別に、今日まで世紀を越えて受け継がれてきた曲があるということ。思えば凄いことではないか。聴かないのはもったいない。

*1:こういう物言いは、ここがサイバースペースであることを無視してはいる。

*2:迷惑の度合いでいっても、具体的なCDの例がない100のリストより、一枚の無理強いCDの方が、迷惑ではない。聴くものが実際にない方が困るだろう。