cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

疲れたときの哲学なんぞ

気分転換に哲学のお言葉?をUPしてみる。


といってもまだ学生でない小生なので高度な哲学的議論はできませんし、稚拙な感想に終始するのでご了承願います。


新版 哲学がわかる。アエラムック
今年3月、全ての受験日程が終わって結果発表を残すのみとなり、大学に入学する前に哲学のさわりでもやっておこうと、AERA MOOK「新版 哲学がわかる。」を買ってみた。買ってみたもののまだ全て読破できていない…
この本はまず「哲学への誘い」として中村雄二郎氏の文章から始まり、「わたしと哲学」でさまざまな研究者の哲学とのかかわりが短く紹介されている。そして「トピックを読み解く」では『コンピューター』『ファッション』などの身近な言葉を哲学ではどう扱うのかが語られている。他にも近代西洋・日本哲学史の概説、池田晶子氏による『どうして哲学なのですか』、過去の哲学者に関する概説、「隣接分野からのアプローチ」など、多くの研究者が筆をいれている。おそらくその道では一級の人々なのだろう(憶測)。
本の多くの部分は私にとって「?」なところが多いのだが、「わたしと哲学」のコーナーは多くの研究者の哲学との出会い、哲学の学び方などが比較的平易に語られていて、非常に面白い。社会倫理学川本隆史氏の文章を読んで社会倫理学に少なからず興味を持ったし、名前だけ知っていた科学思想史の村上雄一郎氏の文章があったりと、哲学する(哲学を研究しているとしたほうが正しいか?)人々とはどういう人間かが少し具間見える。


その「わたしと哲学」のコーナーの中で、気になる1節があった。山崎庸佑氏(日本大学HP内のProfile*1による文章“原点は死を身近に感じた子供の思い”のなかで戦時中の思い出を語っているのだが、

しかし同時に、そこは子供の特権で、大事の最中の傍観者として、「でも、この僕が死ねば、夏は鮎を追い、冬は目白を追ったこの懐かしい山川は、この僕でなくていったいだれの山川なのか。それを僕の死後だれが見ようが、僕に無縁のその《見る》になんの意味があろう。それどころか、僕が死ねば無くなるのは、この僕ではなくて、懐かしい山川のほうかしれたものではない。」などと、子供心に思いをめぐらしたものだった。この子供の思いこそ私の哲学の原点であり、究極とは言わないが、人間としての最終の理由あるいは根拠であったような気がする。


新版 哲学がわかる。アエラムック(朝日新聞社)P.43


みなさんはどのような感想を抱いたであろうか。『自分が死ねば無くなるのは世界のほうだ』、という捉え方は単なる幻想かもしれない。だがこればかりは実際に死を体験せねばわからないことである。『いったいだれの山川なのか』という問いは、『世界は誰かの所有物であるのか』という問いから始めなくてはいけないと思うが、そんな議題を思惟する前に、ただ漠然と眺めている世界を人はどう捉えているかという問題に関心を寄せること、そのことこそが私にとって目から鱗であった。一言で言えば世界と自己という問題であろう。


世界と自己。この問題は永久に解かれることのない難題かもしれないが、人の生きるすべを大きく左右する問題であるように思える。

*1:といっても超有名人かもしれないから、Profile貼る必然性はないかも?全然存じ上げません。