cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

とかく、気が狂いそうになる

未熟ですからメモを起こせなかったわけですが、ちゃんとまとめてくださってます。京都賞の講演です。→http://www.inamori-f.or.jp/laureates/k21_c_nikolaus/lct.html(→記念講演会講演録)

アーノンクールの講演の何に感銘を受けたかと言うと、ひたすら音楽に真っ当に生き続けている、それに対して自分の惨めさ、その落差に圧倒されてたんじゃないかなぁと今思いますね。情けないんですよね、自分が。パートナーとなる愛人(隣人)なんているわけがなくて、アーノンクールは意識が芽生えてからも(それ以前からも)ずっとチェロを弾いてきたわけで、かくいう僕はというと確かにピアノを幼い頃はお稽古やってましたが、飽きて辞めたわけで。高校で音楽に回帰しましたけど、プロとして演奏してるとか、音楽学として勉強してるわけでもないし、所詮コレクターでしょ。確かにそれら素晴らしき名演に触れて、開化はされたけど、だから何?ってところです。業績がないわけです。

とかく今の自分自身に明らかに欠如してるのは、何かに「没頭する」ということ。不安なんですよね、これは「没頭」してていいのか、って無意識に確認してて、結局離れてしまう。結局やらないわけです。なにより生まれが酷い。環境で行動範囲が狭まるわけです。活そうと世界を歩まれてる方々を情報として知ってしまえば(メディアって皮肉)何より自分の位置を把握するわけで、自分のキャパシティがいかに狭いかを自覚するのです。最近宮崎あおいが気になるのですが、彼女がでかでかと載ってるAERAのインタビューを見て口走ったわけです、「お嬢様に用はない」と。不遇なのです、釣り合わないんですね、育ちが。


現在 他者が自分に対して発する言葉の、そこに内包されてる真摯さと言うのを考えると、腹が立って仕方がないのですね。大概真摯でない。真摯と言うか、あくまで自分という支柱から物を言うから、その人の解釈でもって語るわけで、アドバイスという体裁をとってもそれはあくまで当人のものの考え方でしかない。そういうことに気づくのが遅すぎた。あくまで他者は他者、違うんだってこと。それらアドバイスやらを、良い様に言えば「私のために言ってくれた」と捉えてひたすら真面目に捉えてきた自分の不徳さというか、えらく損した生き方してたなぁって、また今後もそうやって生きるんだろうなぁって思うと、馬鹿で惨めでやるせない。というかそんな何かを発してくれる他者すら(今こうやって書いてて「ひたすら語学と勉学に励め」って怒ってくれたりだとか)今はいない、あえて自分から拒絶して今に至ってるわけですが(携帯の電源切ったり)、「孤独」になったと言われれば永遠にならない。こうやって不特定な他者に語りかけようと息巻いてる自分がいる。自我が完結されない。「人は助け合い」って人とうまくやってる人は沢山言ってくれますが、それができないと言う最大の落ち度が私の最たる所で、どうでしょう、永遠に一人身かなと思います。人に助けられる前に自分でやる、他者の介在が許せないんですね。最近非コミュというか、コミュニケーション弱者というレッテルを貼られるのが妥当かと思われます。


「構えすぎ」「中途に賢いと馬鹿を見る」「考えるより行動を」とか批判されるわけですが、ご名答としか言えません。


お酒で酔えないので・飲めないので勝手に気分だけ酔ってみせて、下記のアジテーションを一旦sageるためにも何か書こうと思って「日記を書く」を久々にクリックしたわけですが、そうそうアーノンクールでしたね。講演を思い出すのですが、白眉だったのが楽器に関する「完成理論」、そしてエーゴン・フリーデルの「近代文学史」だったかな。近代文化史―ヨーロッパ精神の危機・黒死病から第一次世界大戦まで〈1〉 近代文化史―ヨーロッパ精神の危機・黒死病から第1次世界大戦まで〈2〉 近代文化史―ヨーロッパ精神の危機・黒死病から第1次世界大戦まで〈3〉 尊敬する人が感化された本とか気になりますが、総じて本は気になりますが、ほんとに読まない・読めない。何の教育が悪かったのだろうか、読書家になれず仕舞いです。おかしいですよね、読書の必要性を十分に認知しながら、読めないって。笑い話です。金を余らせてるときに本など買って見ますが、とりあえず読了した試し最近ない。何だろうなぁ、空しくなります。どう足掻いても読めない。これは読書するな、非読書家として生きろ、ということなのでしょうか。


グリモーのラフマニノフPf協奏曲2番のライナーノーツにも、前述あおいさん出演の「ギミーヘブン」とか、「共感覚」がそれとなく話題だけど、自分で言うのが馬鹿を承知で言うわけですが、今年度の初日に書いた「感覚色」の文章は、あれは「共感覚」ということでよかったのかなぁと思いますね。でも最近は「共感覚」的な感性は鈍ったのか、色とか見えないです。へたってるんでしょうねぇ、精神が。


何か下記で議論を提起しておいて、もうアンコンも定期演奏会も行ける気がしなくなりました。何かを恐れて。


4月からはキチンと大学にいけますように。読書家がうらやましいよ、というオチで。