cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

http://twitter.com/cognoscenti


「あれ?プッチーニって生誕150年だったっけ?ガン無視されてない??」というのを叫びたくて、職場から登録してみた。feecle放置だな。

で、プッチーニは1858年12月22日生まれ*1なので、来年だった。


ついでなので、来年のアニバーサリーを軽く調べてみる。

持ち上げるならやはりプッチーニリムスキー=コルサコフですか。といってもメシアンが重要。


ちなみに今年のアニバーサリー、シベリウスグリーグエルガー、は私的ブームにはならず。シベリウス7 Symphoniesを買ったけど、そんなに聴いてない。グリーグ管弦楽盤を試し買いしたのみ。エルガーエルガー:ヴァイオリン協奏曲が素晴らしかった、くらい。交響曲に触手を伸ばしたいが、予算が。


現在中の人は、Schumann Symphonies 2 & 4やらSymphony 2 (Hybr)やらシューベルト: 交響曲第9番「ザ・グレイト」やら、ロマン派以前に回帰中。マーラーがゴサゴサ感じる。
(ジャケ画像を文字的に使いたかったけど、なんかうまくいかない。)


(追記)
しっかりしたアニヴァーサリー一覧はこちら
今年のアニヴァーサリーな音楽家たち (Update): 「おかか1968」ダイアリー~いっそブルレスケ~

全日本吹奏楽コンクール結果記事を嘲笑する

いつのまにか全国大会中高と終わってました。で社会面にとりあえず結果の記事が出るわけですが、

11校が金賞 全日本吹奏楽コンクール・高校の部


 第55回全日本吹奏楽コンクール全日本吹奏楽連盟朝日新聞社主催)高校の部が21日、東京都杉並区の普門館で開かれ、29校が出場、11校が金賞に輝いた。

 11校が選ばれたのは、98年以来9年ぶり。中学の部同様、オーケストラの編曲作品が自由曲の大半を占めた。フランス近代の名作、ラベルの「ダフニスとクロエ」に4校が挑むなど、吹奏楽の新しい表現の領域に踏み込もうとする意欲的な演奏が目立った。
 福島の磐城高は、指揮の根本直人教諭自ら編曲したバルトークの「中国の不思議な役人」を演奏。アクセントに富む劇的な難曲を手中にして、聴衆を圧倒した。
 埼玉の伊奈学園総合高は、男女の愛を官能的に描いたリヒャルト・シュトラウスのオペラ「ばらの騎士」を本コンクールで初めて演奏。ウィーン世紀末をほうふつとさせる多彩な響きを丁寧に織り上げ、金賞に輝いた。やはり金賞の東京・片倉高は三善晃作曲「交響三章」の第3楽章をとりあげ、繊細な和声のうつろいを複雑なリズムのなかで表現、完成度の高い演奏で喝采を浴びた。福岡工業大付属城東高はここ数年ブームの「トゥーランドット」をめりはりのある表情で新鮮に聴かせ、金賞を手にした。
 審査員の秋山和慶さんは「技術の進歩は著しい」と驚き、「『コンクールが終わったらこれで終わり』ではなく、合唱やオーケストラといった、より深い音楽の世界への入り口に立ったと思ってほしい」と話した。

 成績は次の通り。(以下略


http://www.asahi.com/culture/music/TKY200710210141.html

おそらく各校の記述は各位地元の代表校だと思う(関西は大阪3校)

「11校が選ばれたのは、98年以来9年ぶり」とあるのは、例年10校弱は金賞で約1/3は取る、ということかぁ。まあ検証する必要もないけど、思わず「おいおい」と言ってしまったのは次。

中学の部同様、オーケストラの編曲作品が自由曲の大半を占めた。フランス近代の名作、ラベルの「ダフニスとクロエ」に4校が挑むなど、吹奏楽の新しい表現の領域に踏み込もうとする意欲的な演奏が目立った。 

これはいただけないwww
オケものが大半で、「ダフクロ」が多くて、それが「新しい」とは…。これ書いた人は勉強不足か門外漢か?「ダフクロ」なんて何年来のコンクールベストセラー?そしてオケものが演奏されないコンクールってありました??嘲笑せざるを得ない。
たとえ、「表現の新しい領域に踏み込む」ようなのだったら、「ふむ、新しい特殊奏法満載だったのか?」となるかもしれんが、演奏曲目がオケ物で「ダフクロ」が多いことが「新しい表現の領域に踏み込」むことには決してならない。むしろ未だに傾向がこうであること(詳細略 を皆さん大いに嘆いて欲しいわけで。
審査員のコメントがまたその「新しい表現の領域に踏み込」むという認識をを良しとするのか、『合唱やオケも聞いて新しい領域を開拓してね』というより、『吹奏楽単体では閉塞的だよね』、と勘繰りされかねないよー。もっとも文字通りにはコンクールだけ燃え尽きる人をなじってるわけだけど。
まあこれには吹奏楽自身の歴史その他云々に因るのでしょうが(教育的観点からオーケストラ作品に触れるべき、というのはなんか違和感ありますね。やってる事が遠回りというか)。


一応中学の部も確認。

8中学が金賞受賞 全日本吹奏楽コンクール・中学の部


 第55回全日本吹奏楽コンクール全日本吹奏楽連盟朝日新聞社主催)が20日、東京都杉並区の普門館で始まった。この日は中学の部。全国から選ばれた29校が演奏、8校が金賞に輝いた。21日は高校の部が開かれる。
 吹奏楽人気を反映して中学の部には、昨年より100校多い6649校が参加。予選を勝ち抜いた29校はいずれも「うますぎて困る」と審査員泣かせの実力を披露した。
 昨年銀賞だった奈良の生駒市立生駒中は、ショスタコービチのオペレッタに挑戦。テンポも曲想も頻繁に変わる難曲を、気迫の演奏で一息に聴かせ、金賞を手にした。
 トリを飾った千葉の習志野市立第五中も金賞。有名なレスピーギの「ローマの噴水」を演奏し、繊細な楽器の扱いで深い余韻を残した。
 部員数50人前後の学校が多い中、広島の東広島市立黒瀬中は33人で銀賞と健闘した。トリノ五輪以来、演奏団体が増えた「トゥーランドット」。緻密(ちみつ)なアンサンブルで満場の拍手を受けた。
 今回際だっていたのは各校の選曲へのこだわりだ。吹奏楽用に書かれた曲を自由曲に選んだのは4校のみ。残る25校は、交響曲ピアノ曲などを吹奏楽用にアレンジした作品をとりあげた。
 審査員の平野公崇さんは「原曲の響きに忠実である必要はない。各校の個性に合った音楽を作れているかどうかが重要」と話している。

 成績は次の通り。(以下略


http://www.asahi.com/culture/music/TKY200710210078.html

オリジナルが少なくてオケものが多いことが「こだわり」なんでしょうか。うはぁー、嘆息。こちらの審査員コメントは言い得て妙。


仕方ないので、独断で今年の正しい「新しい」と思われるものを、自由曲のみでピックアップしてみる。(以下こちらより)

13 中国 岡山県 津山市立北陵中学校
 4/喜歌劇「伯爵夫人マリツァ」セレクション (E.カールマン/鈴木英史)  

これは新しく…ないか。オペレッタセレクション路線が目の付け所勝ちというだけ。

8 北海道 札幌地区 札幌市立あやめ野中学校
 4/「スペイン組曲」より ヒタネリアス、アンダルシア、マラゲーニャ (E.レクオーナ/高木登古) 

編曲だけど、上記記事のピアノ曲とはこのこと。さらに課題曲の作者が編曲、と。
エルネスト・レクオーナ - Wikipedia
ホームページ移転のお知らせ - Yahoo!ジオシティーズ

14 四国 高知県 高知県立高知西高等学校 
 3/レッドライン・タンゴ (J.マッキー) 

今んとこ最新のABAオストワルド賞受賞作、と。他3団体。譜面が出たと。
Redirect

 東海 愛知県 光ヶ丘女子高等学校 
 3/バッハの名による幻想曲とフーガ (F.リスト/田村文生) 

オルガン曲(だけどこちらによればピアノ曲の方の名前?)。オケものより、オルガンの方を開拓した方が良いのでは? 編曲者解説↓
http://worldwindbandweb.com/brainmusic/7.1/YDAL-B02/
バッハ:フーガの技法

2 東海 静岡県 ヤマハ吹奏楽団浜松 (指揮/須川展也) 
 3/幸いの龍 (長生淳

これだけ、人的に。

15 関西 滋賀県 大津シンフォニックバンド 
 3/パンソリック・ラプソディ  (高昌帥) 

しっかり曲目解説なさってます。
http://www.osb.jp/dir18-1.html →http://www.osb.jp/dir18-2.html



締めとして言っとくならば、現在中の人はオーケストラのみを聴き、吹奏楽に対する愛着がなくなってしまっていて(一般バンドはまだやってるけど、楽器を叩きに行ってるためだけ、という感じ)、それはまだまだ管弦楽の勉強不足というのもあるが、純粋に表現の枠の画一さにうんざりしてきた、ということかな。吹奏楽が己自身として発展するならば己自身のレパートリーでなくては、ということだろうか。


とまあ来年の締めの演奏会告知後、今後吹奏楽に言及することはなくなるやもしれん、とは思ってる。

本日の素晴らしきCD

Haydn: Symphony No.82 / Shostakovich: No.15

Haydn: Symphony No.82 / Shostakovich: No.15

交響曲第15番、他 ザンデルリング&ベルリン・フィル : ショスタコーヴィチ(1906-1975) | HMV&BOOKS online - BPH0611
一度聴いただけで万人に薦めたくなるCDはそうない。ハイドンの初っ端から驚愕。
ショスタコーヴィチ15番、ザンデルリングのインタヴュー*1を読んで気になってたが、テンポもそうだが、1楽章の大太鼓の鋭さ・奇天烈さが何とも的確すぎる。この打楽器1つでとてつもなく表現が変わるのに、打楽器奏者として鳥肌が立った。


それにしてもハイドンが、ハイドンが… ハイドン:交響曲集(第88番「V字」~第92番「オックスフォード」&協奏交響曲)も買ったけど、やはりモダンオケの重厚サウンドでちゃんと聴いておかないと。

アバド/ベルリンフィルのベートーヴェン

探していたDVD

ベートーヴェン交響曲全集 Vol.3 [DVD]

ベートーヴェン交響曲全集 Vol.3 [DVD]

アバドのインタビュー目当てだったのだけれど、「エロイカ」だけでなくインタビュー映像に7番・8番の演奏映像も挿入されていて、かなりお得。
このペアでの比較的新しい良質な録音、快速ベートーヴェンにすっかりハマっていて(これより遅いテンポなんて、重厚だかなんだか有り得ねー、ってな具合で)、7・8番の映像を見て早速明日ベートーヴェン:交響曲第7番・第8番を買いに行こう、と意気揚々。まあ最初から全集を買ってしまえば良かったのだけど、分売をいくつか買ってしまうと勿体無く今さら買うのに尻込みしてしまい、これはブーレーズマーラーチクルスも然り。

あとベルリンフィルティンパニは、ライナー・ゼーガース(Rainer Seegers)もいいけど、ヴィーラント・ヴェルツェル(WIELAND WELZEL)が若くてかっこ良い。

↓とか(究極一打の何たるパワフルかっこ良さ!)

↓お二方のテーリヒェン(前ティンパニ首席奏者)作曲のティンパニデュエット(こういうのを見せられると、ほんとプロだよね、ほんとわらはアマチュアださ、と思わされるよね)

http://youtube.com/watch?v=iiMWDqegkZM

ハルヒのエヴァに対するオマージュ

言いっ放しの(もしかしたらとてつもなく古い)思い付き。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

を読み返していて今さら気づいたのだが、第七章の閉鎖空間の場面は旧劇場版エヴァ(EOE)の最終場面 Only one more chapter:I need you とかなりリンクしている。

首を絞められる所や、 

「起きろってんでしょうが!」
 首を絞めた手が俺を揺り動かし、後頭部を硬い地面に打ち付けて俺はやっと目を開いた。

※性別としては主従関係が逆転している

男女二人しかいなかったり、「気持ち悪い。」を「気味が悪い」と言ってみたり。

俺たち以外の人間が消えたのではなく、消えたのは俺たちのほうだ。この場合、俺たちこそが誰もいない世界に紛れ込んだ闖入者になるのだろう。
「気味が悪い」
ハルヒは自分の肩を抱くようにして呟いた。

※何が消えたか、の判断が逆(EOEでは二人のみが元に蘇った。)

EOEでは世界がLCLの海となり、全てが一つとなるが、最終的にシンジ(人間)は人の形を取り戻す。そして一蹴で終劇だが、ハルヒでは物語が続き、青い巨人が登場。縦横無尽に暴れまくるその存在は暴走したエヴァになぞらえ得る。新しい世界が創出されようとするが、キスによって元の世界に戻る。このように、世界の対立における連立関係が垣間見得る。*1 

その連立関係は※で印したように、アクロバティックにクロスしている様にも見えるし、相似している様にも見える。それぞれの世界観をどう見るか、すなわちどちらが通常か非常かの判断に因るだろう。少なくともハルヒが、"自他と一"という対立構造を"日常と非日常”という対立関係に置き換えて、オマージュ的に取り入れたように見える。(といっても単なる二項対立じゃん、ともとれるが、表現の類似具合がオマージュ的と言いたい所以で)


でさらに妄言が進めば、時系列としてはずれているのに(EOEは終劇となり、ハルヒは物語が続く)、物語としてはパラレル(世界の変異という点では同じ)、もしかすると新劇場版ヱヴァのループ設定疑惑を予見していたのではなかろうか……

*1:もっともEOEではゼーレとゲンドウとの人類補完計画の対立、さらに宮台に言わせれば、ユダヤ教キリスト教との救済思想の対立がある。

100のメニューより、1つの偶然を

http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20070728/p1
はてなブックマーク - 虚構組曲 - 初心者のためのクラシック音楽100選

知らないことについてとりあえずまとまった物があって、何となく便利そうだとブクマしておくのはいいが、そもそも、なぜこうも再びリストがあがってくるのか(あげたがるのか)という点について、もう少し検討しなければならないのではなかろうか。

なぜリストが必要とされるのか。リストが示されてしまうのか。

これを考えたとき、私は「リスト」を「データベース」に勝手に置換して、「データベース消費」(動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書))を思い出した。
「データベース消費」で説明されるのは、設定の集積であるデータベースから組み合わされたシミュラークルとしての作品を消費するという様式であって、クラシックで言えば、作品のデータベース、演奏者のデータベース等となろうか。
この作品とこの演奏家の組み合わせはイケる(萌える)がこれこれはイケない(萎える)、と確かにイメージはしやすいが、このような想定は暴挙に等しい。でも私が一つ示しておきたいのは、ポストモダン下の消費様式としてデータベースが機能し、またそのデータベースの中身である各種の要素についてあらかた既知であるのに対し、クラシックにおいてはそのようなデータベースすら知られていないのではないか、ということだ。欲望すべきデータベースすら知らないまま、カッコつきの「クラシック」を消費しようとする。であるからして、クラシックを聴こうとなった場合、まずはデータベースを要求する、あるいは示さないといけないと思わずにはいられないのではないか。

以上は抽象論だが、私はそれ以前にこのようなリストに対して懐疑的だ。

それは、音楽に対するあくなき消費の欲望、その本質的な正体を看過しているということである。音楽にはまる、そのきっかけは往々にして突然降りかかってくるようなものであって、リストで示されてすぐに得られるようなものではない。私たちが無防備にふとある音楽を聴いて、本能的に駆り立てられる。その様な個人的で根源的な体験が、更なる体験への欲望の連鎖を生むのであって、リストはそういった音楽を聴いたことによる我々の身体感覚の外部にある、単なる情報の一覧でしかない。

音楽(クラシック)を聴くきっかけはどのようにして与えられるか、それはあくまで個人的な体験であって、本質的には介入不能だ。だがそれでも、他人のお世話でクラシックを聴かせたいと言うのであれば、無機質なリストより、自分自身がはまっていてもしかするとその楽しみを共感できるかもしれない、という無理強い、「これすげーから、つべこべ言わずおめーも聴けや!」の1つから、の方が有効ではなかろうか。あとは受け手の身体感覚に賭けるしかないのである。
あなたは隣の人に、100のリストをとうとうとあげるのか、一枚のCDを手渡すのか。*1 *2

ベートーヴェン:交響曲第3番・第4番

ベートーヴェン:交響曲第3番・第4番


最後に、なぜ今クラシックなのかというもっと根源的な問いに対して、07年7月28日付朝日新聞 be on Saturday business フロントライナーのカメラータ・トウキョウ会長井阪紘さんのお言葉を軽く引用。

――日本では、クラシックブームが続いています。

 井阪 TV版「のだめカンタービレ」の監修は、うち所属のオーボエ奏者・茂木大輔です。でも、クラシックがブームというより、ポピュラーがプアなのでは。今はヒットしていても、エバーグリーンになれるメロディーがない。みんなが聞ける音楽となると、結局、クラシックになっちゃうんですよ。


http://www.be.asahi.com/top/b01.html

私はここ数年でのポピュラーの名曲をあげよと言われても、あげれない。

数ヶ月サイクルの曲とは別に、今日まで世紀を越えて受け継がれてきた曲があるということ。思えば凄いことではないか。聴かないのはもったいない。

*1:こういう物言いは、ここがサイバースペースであることを無視してはいる。

*2:迷惑の度合いでいっても、具体的なCDの例がない100のリストより、一枚の無理強いCDの方が、迷惑ではない。聴くものが実際にない方が困るだろう。