cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

OB・OGのあるべき姿

ネチケット」を辿って行くと偶然oboistさんの記事にたどり着いたので、
私も関連してOB・OGについて考えてみることにする。

吹奏楽界のOB・OGとは、基本的に小学、中学、高校、大学、職場、一般のどの吹奏楽団体にもその存在が認められるものだろう。

原義的な説明をすれば、ある者がある吹奏楽団に属した事実によってOB・OGというひとつのアイデンティティーを持ち、他人からもそのアイデンティティーを認められる、というような人の分類(男の人だとか公務員だとか)をする上での一つの表現方法である。

話はそれるが、アイデンティティーとは決して一つに限られるものではなく、多種多様なアイデンティティーをTPOに応じて変えていくものであると私は考えている。たとえば職場にいるときはその会社における地位を考慮して「私はこの会社の専務だ」と少なくとも潜在的に認識しているだろうし、また、以前属した吹奏楽団を訪れたときは「私はOB/OGだ」と同じく潜在的に認識しているはずである。アイデンティティーとは何も明確に意識に上るものでもないので、決め付けるものではないし、変幻自在に変わるものであると思う。

話を戻す。一般的にOB/OGは、以前属した吹奏楽団にさまざまな理由で訪れたり、他者に以前属した吹奏楽団について語ったりするだろう。またOB/OGが集まってOB吹奏楽団を結成し、新たに吹奏楽団としての活動を実施しているところも少なくない。

私がここで問題にしたいのはあるべきOB/OGの姿である。
まずはoboistさんの記事を一通り見ていただきたい。
http://d.hatena.ne.jp/oboist/20040621#p4

■ [Essay]One of the roots of "lonely oboist"〜OB/OG/エキストラのあるべき姿
実は某吹奏楽団(GREEを見ている人なら多分わかるはず)のOB/OG参加について、掲示板で揉めています。というか、俺が最初に質問したことと完全に論点がずれてるんだけど、俺が言ってしまった余計な一言が大火事になってしまいました。反省。

ただ、OB/OGにはきちんとあるべき姿があると思うんですよ。基本的に、OB/OGとエキストラというのは、ほぼ同じ立場だと思っています。違うのは、その団体出身かどうかだけ。つまり、参加要請がないのに「プレーヤーとして」参加するのは間違っていると思うんですよ(OB/OGが裏方として手伝う分には全く問題ありませんが)。参加しているOB/OGからしてみれば、現役団員が少ないから自分たちが手伝わなければいけない、とか、ここで知り合った仲間たちといつまでも一緒に演奏したい、という気持ちなんでしょうが、それは過信であり、自分勝手な行動に過ぎません。だいたい、一端の社会人がいつまでも中高生の子どもたちと一緒に活動するってこと自体異常だと気づかないのでしょうか?なぜ、もっと広い世界に飛び出して、己の力のなさを痛感し、己を鍛えることをしようとしないのか、理解に苦しみます。まぁ、この悪しき風潮は俺が現役時代から続いているものなので、それが当然だと勘違いしても仕方ないとは思いますが。

俺がこの吹奏楽団のOB参加を辞めた理由は、既にオーボエに団員がいて、プロも賛助出演しているからです。そこに俺が入っても団員の子にもプロにも迷惑がかかるし、何より自分の存在価値が見出せないと判断したのです。バスーンが空いていたのは知っていますが、その当時はオーボエ固執していたので断りました(今ならバスーンで戻ってもいいけどね−条件次第だけど)。

もちろん、自分の楽器を手に入れたことで、自由にいろんなところに行けるようになったのも大きいですね。この団体の体質に疑問を持っていただけに、この団体から離れて修行する必要に迫られていたのです。実際、楽器を手に入れてからの4年間でかなり成長しました。現在無所属なのも同じ理由で、常に自分を厳しい場に置いておかないと自分が成長できないと判断したからです。特定の団体に身を置いてしまうと、甘えや隙が生じると気づき、一プレーヤーとして一本立ちするために、一人で活動することを決めたのです。実は、これがlonely oboistの由来の一つです。決してかっこつけているわけじゃありませんし、孤独という言葉に恍惚感を覚えたからでもありません(命名当時はそうだったかもしれませんが)。

とにかく、過信による自分勝手な判断や行動は禁物ですね。話が少しそれますが、仕事でもプライベートでも、調子が上向いているときこそ気を引き締め、堅実に一つ一つのことをこなす姿勢が大事だと思っています(It is the high time now!)。また、下降線をたどっているときは、己の行いを反省し、悪い根を摘み、下げ幅を最小限にする努力をするようにしています。あと、とにかく他人に迷惑をかけないことを心がけています。これらは全て、一人で活動するときに絶対に欠かせない行動指針だと思っていますが、まだまだ未熟なため、この指針に従いきれていません。日々是修行、これにつきますな。

話を戻しますが、当分あの掲示板には行きません。どうせ閉口するような反論ばかりだろうし、心を安らげる場所でもないですし。一瞬だけ見たら俺の本名を出してるし・・・もう最悪。何のために匿名で投稿しているのかわかりゃしない。ネチケットも守れない人々とネット上でやり取りしても意味ないってことを改めて感じました。もうここの関係者のほとんどとは会いたくないですね。けど、23日にここの演奏会に行かないと・・・ただ、目的は演奏会じゃなく講師の方々に新プロジェクトの相談をさせていただくことですが。多分今回のことで一部の人間から文句を言われるでしょうが、新プロジェクト推進のためなら、これくらいの痛手、何でもありません(聞き流すだけだし)。そもそも自分がまいた種だし、誰のせいにもしちゃいけません。
危険だとわかっていても、もう一歩進む勇気・・・今の俺にもっとも必要なことです。

oboistさんのような事例は吹奏楽をやっている、あるいはやっていた者にとっては決して他人事ではないだろう。OB/OGが現役の吹奏楽団にどの程度干渉してもいいのか、という問題はすべての吹奏楽団にとって共通の問題であるように思われる。

私の経験談を話してみる。まずは基本的な情報を記す。
私が属した吹奏楽部は常に部員約100人を有する大規模な部で、吹奏楽に何だかの関係を持っている人からは非常に個性的な演奏をすることで知られている。その演奏スタイルがゆえに評価がまったく二分している。今年で創部50周年を迎えるので,OB/OGに関してはかなりの数がいると思われる。ちなみにOB吹奏楽団が存在しているが、現役の吹奏学部の要請がない時は活動をしていない。数年前まではおそらく自主的に活動しており、コンクールでかなりの実績をあげていたりする。また金管楽器のOB/OGは金管アンサンブル団を結成しており、チャリティーコンサート・コンクールなどで毎年活動をしている。

私を含め多くのOB/OGは現役の吹奏楽部の練習所を訪れる。場所には苦労するところではないので、自前の楽器を持ってきて自由に練習したりしている。もっとも私の場合、楽器は打楽器で自前の楽器ないので、現役や友人OBの練習の様子を見たり、楽器運搬を手伝ったりするだけだが。訪れるOBの目的はさまざまで、現役の様子を見に来ただけの者もいれば、今属している吹奏楽団が休みで練習場所を求めてくる者もいる。現役の指導に訪れる者もあり、それも現役の要請に関係ないこともある。

私が現役の吹奏楽部にお邪魔するときはなるべく現役の迷惑にならないよう心がけている。それは私の現役時代の経験に基づく。現役時代にしばしば訪れていた某OBに対し、少しではあるが嫌気を覚えたことがある。それは現役は現役のみで部の活動をやるべきで、あまり干渉はしてほしくないという考えからであった。そのような経験があって、現役の吹奏楽部を訪れるときは、なるべく現役のことを思い、何も言わないで見ているだけである。話し掛けられたり意見・アドバイスを求められたときのみ言葉を発する。楽器運搬などの手伝いに関しても、現役から要請があったりよほど困っている様子が認められない限り、手を貸したりしないようにしている。

私はoboistさんの議論に概ね賛同する。OB/OGは大概が成人であり、OB/OGといえども成人として振舞うことが要請されるのは、たとえ吹奏楽の世界であっても変わりないのだ。OB/OGという名義を利用して過度に現役部員の活動に干渉することは、現役部員の活動を阻害する可能性があり、OB/OGとしてはすべきことではない。さらに言えば、そのようなOB/OGの行為は他人を思いやらない自己満足的な気持ちにより生じやすく、自己満足的な欲望を抑制することが求められる社会的存在としての成人=大人がすべきことではないはずである。この私の考えは、私が考えるあるべき大人の姿と非常に関連しているのだが、これについては別の機会に記すこととする。

だがここでひとつの反論を示さなくてはならない。社会学のシステム理論によれば、近代社会とは機能的に分化した社会であり、我々現代人はある意味で相矛盾した複数の社会システムに囲まれて暮らしているといえる。この考えを例えて言えば、会社という一つの社会システムでは大人としての振る舞いを心得なくてはならないが、吹奏楽という別の社会システムではOB/OGが現役生を干渉して当たり前であると仮定すれば、どちらの社会システムが正しいか取捨選択はできず、どちらも正しいことになってしまう。もし吹奏楽という社会システムが上記のようにOB/OGの干渉を当然とみなす社会システムであるならば、成人としての振る舞いを要請することはできなくなってしまう。この考えには一理あるように思われる。
(詳しくは2004年5月13日付 朝日新聞夕刊文化面 西垣通氏の記事を参照)

しかし私は次のように考える。たとえ機能的に分化した社会であっても、すべての社会システムに共通する普遍的な社会的ルールというものが存在するのではないか。というよりあるべきではないか。そうならば社会システムに関係なく、やはりOB/OGは成人としての振る舞いを心がけなくてはならないのである。

※大変長くなってしまい申し訳ございませんでした。最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。ご意見、ご感想をどうぞ。