cogno-SIC

cognoscenti(こぐのん) notes (mainly classical music)

小難しいかな

覚書なんで勝手な感覚的思索で御免。


久しぶりに吹奏楽を聞いてて思ったこと(90〜94年の課題曲)。「なんか小難しい、細々としたことしてるなぁ」と。


私の課題曲の守備範囲(知ってるってこと)は90年代以降のみとなってしまうが、90年入ったらへんの課題曲は、まあ一貫性というやらが「微妙に」ない。一方で完全なる秩序の放棄がなされているわけではない。これは知名度による偏見も多分に含まれるが、私の知らない作曲家の作品は何か「微妙な感」を覚える。これが少し時が進むと非常に万人受けする分かりやすくすっきりしている作品が多々出てきてくるのだが(マーチにて)、それは秩序ある側に完全に身を置くことを決意した作品である(そう見ると、マーチ「潮煙」(上岡洋一)は純過ぎていい)。再び90年代初期を振り返ると、以前のいくつかの作品はやってることが中途半端というか、方向性が無いように見せかけてあるような、何がしたいのかわからない。混沌も中途半端だ。幾分90年代中期の方が「中途半端さ」はない。以前該当するCDのレビューには安易に「前衛的」と言ってしまったのだが、それは他と比べて幾分かキレがよい、としか今は言えないし、言いかえるべきだと思う。
あまり量を聴いてないので比較可能かは甚だ疑わしいし、クラシックと吹奏楽を対等な位置で比較することの是非も疑問だが、メシアン武満徹らを考えるとほんとに思い切りがよくて、極地の側にあると思う。吹奏楽作曲家のやってることが中途半端に思えてならない。そして日本には伊福部昭という作曲家がいるのにもかかわらず、である。これは日本人作曲家だけを見た傾向だろうか。なかなか世界に目を向けてもそんな感じがしない(シュワントナーの「…そして山の姿はどこにもない」やフーサの「この地球の神を崇める」)。西洋を模倣して、結果的に混沌としているという思想での日本の傾向が、ここではさらに中途半端に混沌としている。
ただこれが90年代後半になってしまうと連盟の方針変換があったのだろうが、一転して作曲家の意志への尊重をせずに演奏家の立場を考慮したいわゆる「簡単な」作品が課題曲となる。音楽作品としての評価対象とはなり得なくなった。その反省から課題曲5番が新設されたが、やはり「微妙さ」が復権したようにしか現時点では思わざるを得ない。
ここで「吹奏楽は庶民の音楽」というクラシックと対置した見方を思い起こすのだが、吹奏楽は完全に庶民化するのか、新たに模索する道を含むのか。今はおおよそ庶民化の傾向にあると思われる。90年代はまだ実験する意志があったということか。


…やっぱりクラシックばかり聴いてると、吹奏楽離れが進行してしまうのは世の常か。いやでも私の音楽の重要な起点は吹奏楽に他ならないから、完全には離れられないだろうな。ということで、吹奏楽の方々は私が吹奏楽と訣別するような心配はしないで下さい。


クラシックと吹奏楽を総合してみる試みは、まだまだ無謀。知識がない。さらに音楽界全体を見るなんて地球を通り越して宇宙を通り越すほど無理。


…ほんと何書いてるんだろう?暇なだけですか、いややるべきことあるのにわざと暇にしているからですか…